●フィリピンの歴史

外から見たフィリピンの歴史
 1521年3月17日、マジェランがサマ−ル島に到着してからの歴史は、(たぶんスペインに都合が良いように)詳しく残っているのだが、それ以前については、殆ど記録がなく、古代タガログ語を使用していたらしく、バランガイという集落単位であった。としか解っていません。

 フィリピン国内からは、10世紀頃に作成された「ラグナ銅版碑文」と言うものが出土していますが、これ1点しか無く、フィリピンと交易が有った中国側の文献を探しても、13世紀始めに書かれた、趙汝カツ(しんにゅうに舌)の諸藩志にちょこっと登場し、14世紀なかばに書かれた汪大淵には麻里国(マニラ)、蘇禄(スールー)が登場していが、詳しく知る手がかりはありません。 中国の文献によると当時スールー諸島のホロ島に、スールー王国が存在していたらしいです。

 ともかく、1521年以前の建造物が全く無いと言うのは、当時ミンダナオ島とスールー諸島はイスラム教だったはずなので、何かありそうなものなんですけど、スペインが全てを破壊したのか、それともたいした文明が存在しなかったのか?そのころ日本では既に室町幕府や金閣寺、銀閣寺が完成していました。
 山下財宝を探すために色々な所を色々な方々が穴を掘っていますので、何か出てもよさそうですし、焼き物ひとつ出てこないと言う点と、1564年11月21日にレガスピ遠征隊がボホール島上陸、船4隻で植民地化が始まってしまったと言う事は、やはり大きな文明は何も無かったのかもしれません。話では、レガスピ隊が到着したとき43年にマジェランが残していったサントニーニョが綺麗に飾られていたそうです。

 スペインは、333年の間、ムスレム(モスレム)の抵抗の激しいミンダナオ島(とスールー諸島も入るのか?)を除くフィリピンを統治していました。1898年英米戦争で、フィリピンが米国の手に渡る前の1898年6月12日フィリピンは独立宣言をし、1998年が独立100周年となります。

 しかし1898年、米国とスペインはパリで講和会議を開き、12月10日にスペインは2000万ドルでフィリピンを米国へ売却しました。これを受けてこの年より米国の植民地化が始まります。米国は各地に小学校を設立し英語を教えその甲斐があってか、現在、英語はフィリピンの公用語となりました。

 日本軍は、1941年12月8日のルソン島のクラーク、イバ両基地を空爆し、1942年1月2日マニラに進駐しました。フィリピンは再度戦禍に包まれてしまいます。
 4月9日には、捕虜と一般市民合計8万とも10万名とも言われる人々を引き連れて「バターン死の行進」が始まります。
 同月には東京・名古屋・神戸が空爆を受けていますし、1942年6月にはミッドウエー沖海戦で大敗を記し、1942年3月31日、「アイ・シャル・リターン」の名言を残してオーストラリアに退却したマッカーサーも、1944年10月20日レイテ島へ戻り、翌1945年3月5日には米軍がマニラを完全占領し、同年8月15日終戦を迎えます。8月15日はフィリピンにとって戦勝記念日となります。
 

 まぁその後色々とあるようですが、1946年7月4日フィリピンはめでたく、米国から独立を果たすのです。このように独立してから、50年ほどしか経っていない事、400年以上にわたって植民地として運営されてきた事、国家賠償は当然しましたが、それでも日本軍により多大な被害を与えた事を忘れてはいけません。

●フィリピンの歴史上の超有名人

勇者ラプラプ マクタン島の首長 1521年
 フィリピン歴史で登場する最初の勇者、外国からの進行を阻んだ唯一1人のフィリピン人です。マジェランを打ち倒し、スペインの植民地化を防ぎました。セブ島と橋で繋がったマクタン島へ行くとラプラプの像が(たしか海向き)に建っています。

ホセ・リサール フィリピン統一の国祖 1861年〜1996年
 リサールについて書かれている文献を読むと、心が打たれます。現在マニラのリサール公園に銅像があります。処刑される前に書かれた、「最後の別れ」が「El mundo de Goyo」で日本語に翻訳されて掲載されています。処刑された12月30日はリサールデーとして、国民の休日とされています。

フェルディナンド・マルコス  〜1989年
 1965年〜1986年まで大統領に就任、フィリピンに戒厳令をひき、フィリピンを借金まみれにした張本人だと思います、政府腐敗もこの方の貢献があったと思いますが、ほかの人がやったらどうだったかは不明です。どちらかと言うと、まだ存命なイメルダ婦人の方が、生きているだけあって、話題を振り撒いてくれます、靴1000足の話と、10%のコミッションで何でも引き受けたって言う逸話は有名です。
 アジア・ウイークが選んだ偉大なアジア人20人の中にマルコスは鉄人として取り上げられていますので、もしかしたら偉大だったのかもしれません。
 そして、たぶん遺体は未だに冷凍保存されています、その電気料は不払いだそうです。

コリー・アキノ
 1986年〜1992年、大統領に就任、黄色がトレードマーク、私はこの時側近の秘書官とお友達であった、そのためかなり安心してフィリピンで暮らしていけた。
 夫の故ベニグノアキノは、1983年8月に飛行機から降りたところを射殺され、銅像になった。
 現在の評価は、タダのおばさんだった・・・と言うのは本当だろうか?

フィデル・ラモス 1928年〜
 1992年〜1998年、大統領に就任、マルコス時代軍事顧問、アキノ時代国防相、大統領補佐を勤める。若葉がトレードマークで”たばこ”の愛称があった。

ジョセフ・エストラーダ
 前副大統領、映画俳優で、マルコスと接点を持つ現大統領、英雄基地へ故マルコス大統領を埋葬する計画をもっている。先日大統領側近の元映画俳優と一緒に食事する機会に恵まれましたが、当分あっちで暮らす予定がないので、普通に接してしまいました、うーん。

年代が抜けていますが、調べがつき次第記入します。

参考図書

井村文化事業社 フィリピン史物語 -政治・社会・文化少史-
井村文化事業社 ホセ・リサール ノリ・メ・タンヘレ -わが祖国に捧げる-
中央新書 物語フィリピンの歴史 「盗まれた楽園」と抵抗の500年
日本放送協会 不思議の国フィリピン

その他の図書

井村文化事業社 ホセ・リサール エル・フィリプステリスモ -反逆・暴力・革命-
井村文化事業社 フィリピンナショナリズム論
井村文化事業社 フィリピン・過去再訪
井村文化事業社 フィリピンの社会
井村文化事業社 フィリピン回教徒問題

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